埴原(はにはら)正直は1876(明治9)825日、現在の山梨県南アルプス市で生まれた。1897(明治30)年、東京専門学校(現早稲田大学)政治学部英語政治学科を優等首席で卒業した。43才で外務次官、1922(大正11)12月に46才という日本外交史上最も若くして、しかも、早稲田大学出身最初の駐米全権大使となった。(現在の杉山 晋輔は、二人目)

埴原駐米大使(当時)は、192312月、米議会に提出された新移民法案、いわゆる「排日移民法」案に含まれる排日移民条項は、人種差別であるとして修正を求め、米議会を相手に激しく闘った。

特にこの法案は、日露戦争、ポーツマス講和会議以来強まっていた「黄禍論」(Yellow Peril)の流れを汲んでおり、この法案が成立すると、日米間だけではなく中国、朝鮮・韓国、東南諸国を包むアジア、黄色人種全体に影響するとして、「重大な結末(grave consequences)」をもたらすことになると「警告」した。

ところが、法案提案者の下院移民・帰化問題委員長アルバート・ジョンソン氏は、この法案の危険性に気付くことなく、逆に埴原の「重大な結末(grave consequences)」という言葉をとらえ、「挑発的」で「威嚇的だ」として、議会の多数派を形成して、19244月に法案可決に成功した。埴原は、この結果責任を取らされ、「辞職」という本人が知らないまま、不本意な形で帰国した。

しかし、埴原の本領は、その後の自説を貫き、民主主義と平和とは何か、ナショナリズムの危険と戦争反対を訴え続けた一連の行動の中で発揮されている。例えば、帰国したばかりの192483日「大阪時事新報」に「日米関係の解決は国民全体の力で」として世論に訴えている。

25年、「国際法外交雑誌」に「日米関係に就いて」では、「デモクラシーの時代には・・・国際問題に就いて自分側の主張、立場を正当に理解擁護すると同時に、相手方の主張、立場をも公平に理解し考慮する知識と雅量を養い蓄える必要責任がますます多くなって来たということ」であり、「もう一つは、議会政治が民意達成上からは、・・・これに勝る良い制度は、あるいはないかも知れぬが、おうおうにして民意を裏切ることもあるので、国民は政府だけでなく議会や議員の行動を注意監視する必要と責任が大事である」と述べている。

さらに「日本が平和を得るためには、不安定な中国と紛糾を起こさず中国に良い方向に向くよう協力し、助力する必要がある」「日米親善は、世界平和のためであり、両国がお互いの国情や国民性を理解することは義務である」と述べ、今日の「混迷するグローバル化の時代」にも通じる理論を展開している。しかし、当時の日本政府は、米国との通商・外交政策をあきらめ、中国、朝鮮などでの植民地化にまい進することになる。

1927324日に南京事件が起き、420日に田中義一(1864~1929年)内閣が成立すると、埴原は、1928年の「外交時報」に「対支外交官見」として中国侵略の自主膨張外交を進める田中外交を批判し、治外法権即時撤廃を主張している。

 また、日本人は当時の中国での外国人の8割を占めており、軽侮、強要、偏執、差別は「不破紛糾の培養素」であり、「支那に関する限り東京にて華府(=中国政府)会議参加諸国の駐日大公使を招集し、・・・協同一致の行動を促進する7臨時期間を設置」することを提案している。

 また、192941日「外交時報」で「党人外交を戒む」では、「田中外交ほど国民をして深甚なる危機の念を懐かしめたことは未だかつてない。」と時の総理を全面的に批判している。

しかし、こうした警告を続けた埴原は、19312月に再度脳溢血で倒れ、再起不能となり、1934122058歳で死去した。同月29日、日本政府はワシントン海軍軍縮条約破棄を米国に通告した。

後にポスト紙は、「重大なる結果」(grave consequences)を招くという埴原の予言は現実になった」と報道している。(stone

hanihara